大川周明『頭山満と近代日本』


---- ---- 本文のみ 次→ 最終≫

傍点 ルビ                   縦書き表示
  1. 全頁まとめてダウンロード
    ※ファイル名はtxtviewと表示されますが適当なファイル名をつけて保存してください(拡張子も忘れずに)。utf-8コードのテキストファイルとしてダウンロードされます。
  2. 修正画面へ
    現在、真理子未承認のユーザ最新修正を信頼するモードです。真理子が承認したテキストのみを表示するモードにする
    このテキストには真理子未承認のユーザ修正がありません。
    このテキストは過去にユーザによる修正を0回受け、真理子の校正を0回受けました。
  3. 入力マニュアル


 清朝の史家趙翼は『秦漢の間は天地の一大変局なり』と言つた。此の形容は最も善く明治維新の歴史に恰当《こうとう》する。春秋より秦漢に至る期間は、中国史に於ける偉大なる解放時代であり、貴族政治の崩壊に伴ひて、上古の政治及び社会組織、また之に連帯せる経済制度が、悉《ことごと》く根本的変化を見るに至つた。まさしく新大新地の出現である。明治維新また同様である。そは決して単なる政治的改革ではなく、実に物心両面に百る国民生活総体の革新であつた。頭山翁は安政二年四月十二日の誕生であるから、十四歳の秋《とき》に明治元年を迎へたこととなる。
 さて明治維新の機運は、第一に大義名分を高調せる漢学者、次では大日本史・日本外史等によつて国体の本義を明かにせる史学者、更にまた復古神道を力説せる国学者の思想的感化を受けたる志士、並に欧米の新知識に接触せる開国論者等によつて促進されたものである。而して異種の思想系統を惹きたる此等の人々が、倒幕と同時に維新政府に入りて、等しく要路に立つこととなつた。此事は必然政府諸般の施設に反映し、明治初年に於ては、思想的根拠を異にせる、従つて矛盾撞着せる幾多の法律命令が発せられ、国民をして膏に其の煩項に悩ましめたるのみならず、施政の方針また屡々動揺して、適帰するところを知らざらしめた。政府を調刺せる当時の謎々合せの一つに曰く『太政官とかけて浮気男と解く、心は夜昼七度変る』と政府の朝令暮改は実に此の誠刺の如く甚だしかつた。明治維新の根本方針は、名高き五個条御誓文によつて確立されたとは言へ、その実現のためには有らゆる紆余曲折を経ねばならなかつた。
 蓋《けだ》し維新の幕一たび切つて落さるるや、雑然たる各種の傾向が、是くの如き偉大なる転換期に敦れの時代・敦れの国の歴史にも共通なる現象として、先づ社会的並に政治的に新旧勢力の対峙となり、やがて武断派と文治派、急進派と保守派の二大陣営に分れ、朝に於ては征韓派と内治派との抗争となり、野に於ては暴動と暗殺との頻発となり、波瀾幾度か重畳して国家は屡々危地に出入した。見よ、一方には皇政復古の精神に則りて天皇親政が行はれ、太政官・神舐官等の如き大宝令官制の再現を見、廃仏棄釈・基督教迫害が行はれると同時に、他方には明治維新の精神に応じて大官・学生の欧米派遣となり、一切の旧きものの極端なる排斥となり、欧米模倣の文明開化が強調され、国諸を廃して英語を採用すべしと唱ふる者、共和政治を謳歌する者さへあるに至つた。一は洋服を胡服と罵れば、他は和服を蛮服と嘲る。是《か》くの如き対立が、国民生活の一切の方面に現れた。而して此等の二つの傾向が、時には並行し、時には雁行し、時には先後しつつ進んで成れるものが、実に明治日本の政治であり、法律であり、経済であり、総じては一般明治文化である。
 さて明治初期に於て日本の主流となれる思潮は欧化主義であつた。もと明治維新は、儒教の大義名分の思想と、国学によつて閾明せられたる国体観念の把握とを思想的根拠として行はれたる改革なりしとは言へ、既に幕府を倒して天皇を中心とする政治を行はんとするに当りては、今更支那の制度に倣ふべくもなく、さりとて上代日本の制度を其儘に復活すべくもない。それ故に明治維新の指導者が、今や新たに交りを結んで強大恐るべきを知れる欧米諸国を模範とし、制度文物みな之に則らんとせることは、固より当然の経路であつた。彼等は日本を富強ならしめるためには、西洋文明を取入れる外に別途なしと考へ、徹底せる日本の近代化、又は日本の西洋化に着手した。
 そは実に驚くべぎ急激なる変化であつた。維新以前僅に十五年、ペリーの黒船が初めて浦賀に来りし頃まで、国民は西洋人を野蛮視して居た。当時の草双紙や錦絵には、犬の如く片脚あげて放尿せる西洋人の姿を描いて居る。浦賀で一米人が死んだ時、幕府の大奥の女中が『浦賀で異人が.人落ちました』と.=口つた。落ちるといふは鳥類が死んだ時に使ふ言葉である.その西洋人が暴力を以て開国を強要せる故を以て、撰夷運動が激成され、開国を迫られて承認せるを許すべからずとして倒幕の気勢揚がり、遂に皇政復占の世となつたのである。然るに今や昨日まで穰夷倒幕に無我夢中なりし志士が、君子豹変して欧米文明の随喜者となり、日本の欧米化に死力を傾倒し初めた。明治六年木戸孝允が井上馨に与へたる占簡の中にドの如き一節がある。曰く「久翁へは昨春相論じ見候得共、今日の時勢にては取込丈け取込、其弊害は十年勲十五年歎の後には、必ず其人出候て改止可致との事にて、ばつとしたる人人らしき論に候へとも云々』と。書中の久翁とは即ち大久保利通である。新口本の韓魏公たる大久保甲東さへ、尚且是くの如ぎ極端なる改草論者たりしとせば、其余は即ち知るべきのみである。わけても当時欧米を巡歴せる人々は、其の事々物々に驚魂骸魂して、日本は果して彼等と伍して独立を保ち得べぎや否やをさへ憂ふるやうになつ元。木戸孝允の如き、欧米を一巡して特に此感を深くし、帰来極度の神経哀弱に陥つたと伝へられて居る。福沢諭吉の『学問のすすめ」にも、下の如く述べて居る――
 『近来継に識者の.言を聞くに、今後日本の盛衰は人智を以て明に計り難しと錐ども、到底其独立を失ふの患はなかる可しや、方今目撃する所の勢に由て次第に進歩せば、必ず文明盛大の域に至る可しやと云ふて之を問ふ者あり。或は其独立の保つ可きと否とは、今よりニゴ、十年を過ぎざれば明に之を期すること難かる可しと云て之を疑ふ者あり。或は甚だしく此国を蔑視したる外国人の説に従へば、辿も日本の独立は危しと云て之を難する者あり。固より人の説を聞て遽に之を信じ、我望を失するには非ざれども、畢寛この諸説は、我独立の保つ可きか否かに就ての疑問なり。事に疑あらざれば問の由て起る可き理なし。今試に英国に行き、貌利太の独立保つ可きや否やと云てこれを問はば、人皆笑て答ふる者なかるべし。其答ふる者なきは何ぞや。これを疑はざればなり。然らば則ち我国文明の有様、今口を以て昨日に比すれば或は進歩せしに似たることあるも、其結局に至つては末だ一点の疑あるを免れず。筍も此国に生れて日本人の名ある者は、之に寒心せざるを得んや。』
 かくして日本の独立を保ち、欧米諸国と対等の交際をなすために、日本を欧米諸国の如き文明開化の国たらしめねばならぬといふことが、明治政治家の切なる念願となつた。而して文明開化の民となるためには、政治法律はいふまでもなく、産業の組織、教育の制度、さては風俗習慣まで悉く欧米に倣はねばならぬと考へた。森有礼は、口本語は文章としては意味曖昧、口語としては演説に適せずとの故を以て、之を廃して英語に替へるがよいと考へた。実に日本の国語までが当時の政治家によつて葬り去られんとしたのである。かくて日本の旧物は大胆に棄てられた。東京の八百八町、随処に洋学指南所の看板を掲げて怪しげなる英語を教へる者が籏出した。酒楼の少女が客と語るに洋語を挟み、英語・仏語を入れたる都々逸が謡はれ、男子の袴を穿き、腕まくりなどして、洋書を提げて往来する女学生も現れた。店頭に立つて書籍の売行を見れば、四書五経は反古紙に等しく、仏書の如き大般若経の浩潮を以てして、其価は洋書の零本一冊にも如かなかつた。
 髪は斬られ、膏は蓄へられ、断髪頭は『文明頭』と呼ばれ、女子の間にさへ斬髪者があつた。洋服着用者も多くなつた。その洋装は如何なるものであつたか.明治四年十月発行の『新聞雑誌』に掲げられし柳屋洋服店の開店広告にドの如き一節があるー『奇なり妙なり世間の洋服、頭に普魯士の帽子を冠り、足に仏蘭西の沓をはき、筒袖は英古利海軍の装、股引は亜米利加陸軍の礼服、婦人織襯は肌にま籍て隅く、雌灘が合羽は狸を過ぎて長し.恰も日本人の台に、西洋諸国はぎわけの鍍金せる如し。』俳優尾L菊五郎は、明治四年夙くも洋服に、長靴を着けて楽屋入りして居た。芸娼妓の間にも洋装する者が現れた。此等の急進主義者は、和服を『因循服一と呼んだ。飲食もまた洋風がよしとせられ、,明治五年滋賀県令は下の諭達書を発して肉食を奨励して居るー「牛肉の儀は人生の元気を稗補し、血肉を強壮にするの養生物に候処、兎角旧情を固守し、自己の嗜まざるのみならず、相喫し候へば神前など揮るべしなど、謂はれなき儀を申触らし、却て開化の妨碍をなすの輩少からざるやの趣、右は固陥因習の弊のみならず、方今の御主・恵に戻り、以ての外の事に候。以来右様心得違の輩有之候に於ては、其町役人共の越度たるべく候条、厚く説諭に及ぶべし。』同年京都府でも同じく諭達書を以て牛乳と石鹸の使用を府民に奨励し、「牛乳は内を養ひ、石鹸は外を潔くするは、大に養生に功あることに付、別紙効能童[相達する条、疎に心得ることなく』と言つて居る。
 事情是くの如くなるが故に、明治初年の吾国の教育方針は、日本国民の教育に非ずして、世界人又は西洋人の教育であつた。極言すれば国民を西洋人に造り変へることであつた。現に文部省が最初に全国に造りしものは英学校であり、英学校が後に師範学校となつた。予は昭和二年夏、岩手県に赴きし時、盛岡師範学校最初の教育方針を、当時学生たりし土地の故老より聞くことを得た。此の故老の語るところによれば、校長は西洋の学問をするには衣食住をも洋風にしなければならぬとして、五十歳前後の初老の婦人教師にまで洋服を強ひ、生徒には洋食を食はせたとのことである。但し其の洋食は、生徒が食ふに堪えずとして強硬に抗議せしため、後には和食に改めたとのことであつた。政府は是くの如き教育によつて教師を養成し、全国に小学校を立てて、国民に無教育者なからしめんとした。
 三上文学博士は、曽て国史回顧会に於ける講演の中で下の如く述べて居るー『私一個の経験に就て申すことは如何でありますが、私が小学校の生徒であつた時からこのかた、さながら亜米利加の児童として明治政府から教育せられたのであります。小学校の初めに「イト」「イヌ」「イカリ」等の単語図を学び、続いて連語図を学んだのでありますが、其文旬は「神は天地の主宰にして人は万物の霊なり」「酒と煙草は衛生に害あり」等から学んだのであります。酒と煙草は衛生に害ありは其通りで、少しも変なことはありませんが、其神といふのはゴッドの直訳であつたと云ふことを後に承つたのであります。それから修身書を学びましたが、其教科書は亜米利加のウェーランドの著したものの翻訳であつて、無論基督教主義の徳育でありました。歴史を学べば初めから外国歴史であつて、日本歴史は教へて貰はなかつた。地理を学べばミッチェル氏世界地理書で、日本に関することは一ページかニペー.シより書いてなかつたと思ひます。中学以上に於ては英語の教科書を多く用ゐましだから、、層外国の少年らしく教へられたものです。大学の予備門、即ち後の高等学校に於て、明治十六年に始めて一週一時間新井白石の読史余論を教科k目として国史を教へられましたが、これが高等学校程度の学校に於て国史を教へられた鴨矢であります。それも独逸語のお雇教師グロート氏が、予備門長杉浦重剛さんに向つて、各国とも此程度の学校にては其国の歴史を授くるものであるのに、此学校にはそれが無いのは甚だ不思議であると注意したので、予備門艮も成程と思はれ、そこで私共のクラスから国史を置かれたのであります。予備門長があの国粋家の杉浦さんであつたからこそ、早速グロート氏の忠告を容れられたのでありますが、若し酒々たる其当時の人をであつたならば、其の忠告も或は容易に受入れられなかつたであらうと思ひます。併し私共は他の一面から観れば、小学校より帰り途に、漢学の先生の所に立寄つて、国史略・日本外史・十八史略・大学・論語等を教へられましたので、政府の手によつて亜米利加児童らしく教育されましたけれど、幸に私塾で謂はば補習教育によつて日本人らしい教育を受けたのであります.私共より尚後れたる或る時代の人は、学校に於ても国史及び之に近い学科の教育を受くること少く、私塾に於ても右の如き補習教育を受けなかつた場合が頗る多.いのであります。』
 さて明治政府は『邑《まち》に不学の戸なく、家に不学の人なか[ら]しめん』との意気込を以て、全国に学校を立てたものの、教師は容易に得らるべくもない。出来得るならば政府の意図する西洋風の教育を施す教師を、日本の津々浦々に配りたかつたであらうが、それは当時に於て到底不可能のことであつた。かくて止むなく学問ある士族、旧藩の学校の先牛、乃至は僧侶や村学究などを校長や教師に採用して、当面の急に応ずることとした。そは政府としては不本意であつたとしても、日本のためには幸福なことであつた。若し政府の希望せる資格を具へし教師が、全国一斉に同胞を欧米人たらしむべく教育したとすれば、日本人の性格は大なる変化を蒙らねばならなかつたであらう。然るに幸にも此等の村学究先生は、政府当局とは事変り、毫も西洋を尚び又は恐れることはない。中央の有識者が日本の独立を危ぶんで居た時に、彼等の眼中には紅毛碧眼の徒なく、専ら漢学又は国学によつて鍛えし思想を少年に鼓吹し、日本は神国であり、文明国は支那のみなるかの如き思想を、純真なる少年の頭脳に刻み込んでくれた.これは日本にとりて思ひ儲けぬ幸運であつたと言はねばならぬ。政府が飽迄も日本を第二の欧米たらしむる方針を以て進み、国民生活の一切を欧米化せんと努めたるに拘らず、国民が能く日本的白覚.と自尊とを護持し得たのは、此等の老先生に負ふところ大であ.つた。
 頭山翁は黒田藩で百石取の馬廻役を勤めた筒井亀策の三男として生れ、少年時代の教育を古川塾・瀧田塾・亀井塾等の漢学者の私塾に於て受けた。乙次郎といふ名前であつたが、十歳か十.歳の頃に鎮西八郎源為朝にあやかつて筒井八郎と自称した。幼より記憶力がすぐれ、物事を悟るのに鋭敏であ.つた。七八歳の頃、父兄に伴はれて桜田烈士伝の講談を聴きに行き、帰来その物語の要領を精確に復論したのみならず、十八烈士の姓名を番く記憶して居た。亀井塾におつたころも、貫の抜群の記憶力を以て『筒井の地獄耳』と称せられた。
 翁は十四歳を迎へた明治、兀年、太宰府の天満宮に参詣し、爾米其名を満と改めた「.此年は翁の精神にも維新が行はれたと見え、日常の行動が俄然一変するに至つた。それまでの翁は手に負へぬ腕白者で、兄や姉のものでも欲しい思へば容赦なく奪ひ取り、子供仲間では五つ六つ年長の者を頭ごなしに押さへつけ、近所の菓~屋などでは食ひたい放題に店頭で掴み食ふので、菓子屋ではそれを通帳につけて時々催促に来た。武」の家庭では買喰ひなどをすることは堅く禁ぜられて居た、翁の父は極めて温和な人であつたが、母は頗る厳格な人で、翁の乱暴を見兼ねて時には激しく折艦することもあつたが、そういふ時でも翁は母に五つ殴たるれば六つ叩き返すといふ風であつたので、母は「此子が一日でも半日でも普通の.r供であつてくれたら』と嘆いて居た。然るに十四歳の時に、何を感じてか心様俄に「転し、打つて変れる孝行者となり、よく両親の手助けをするやうになつた。但し天稟の風格は従前の通りで、実兄筒井亀来翁はドの如ぐ語るー『それでも変り者は矢張り変り者で、米を掲くのも普通の杵では軽いからと云つて、杵の中に鉛を入れて鳩くものだから、米を滅茶々々に粉にしてしまふやうな事がありました。』
 もと福岡の藩祖黒田長政は『大唐の渡口』なるの故を以て特に徳川家康に請ひて筑前五十二万石に封ぜられたものであり、二代忠之以来は、佐賀藩と共に長崎警衛の任を命ぜられて来た。寛永鎖国以後、長崎は月本唯.の海外折衝地であり、西洋文明は僅に此の窄き門を通して吾国に伝へられた。近世に至り黒田斉清は、此の重要の任に在るを利用して海外文物の輸入に努め、曽て白ら蘭医シーボルトを長崎に訪い、諸生をして蘭学を学ばしめた。薩摩の島津家より入りて斉清の後を嗣げる長薄は、更に洋学の勃興を促し、自ら率先して西洋科学を修めたほどであり、青木興勝・永井太郎・安部龍平等の西学者が輩出して居る。然るに明治維新に際して、福岡藩は態度鮮明を欠いたために、かの大藩を以てして明治政府に重要なる地位を占めることが出来なかつた。而して中央に於ては急激なる欧化政策が強行されたに拘らず、従来他藩に比して蘭学が盛なりし福岡でありながら、毫も中央の方針に呼応することなく、昔乍らの学問並に教育が専ら行はれて居た。頭山翁の学んだ亀井塾は、亀井南冥・昭陽・場州と三代相伝の学者が、荻生但侠の学説から出でて別に一家の見を立てたる学問を講じたる私塾であつた。
 其頃福岡の人参畑に高場乱といふ女医並学者が居た。父祖の業を承いで眼科医となつたが、漢学を亀井陽州に修め、易に就ての造詣最も深かつた。いつでも男装し、外出する時は竹皮製の甚八笠を被り、未だ曽て傘を用ゐない。夏は浴衣一枚、冬は之を三枚襲ね、曽て袷や綿入を着なかつた。無欲・悟淡・豪放・至誠の人で、医術の傍ら青年に学問を教へて居たが、後には講義の方が主になり、興志塾と称した女史の人参畑の塾は、当時福岡の名高き学者正本昌陽の鳥飼の塾と並べ称せられるやうになつた、明治四年頭山翁がト七歳の時、眼を病んで高場乱女史の治療を受けに行つたところ、大勢の青年が女史の講義を聴いて居た。女史の溌刺たる講義振り、塾生の元気横溢せる気風が痛く翁の心を捉へたので、翁は直ちに入門を志願した。女史は此処の塾生は皆命知らずの乱暴者だから、若年の者は到底伍して行けまいと、再一.一人塾を制止したが、翁は荒武者揃ひだからこそ仲間入りしたいのだと言つて、遂に其の許可を得た。其日塾生等は何か煮て居るところであつた。翁は黙つて其処に坐り込み、箸を執つて第.番に食ひ初めた.女史は此の有様を見て、叩かれもせずに御馳走になるとは何とした結構な身分かと不思議がつた、其日塾生は十八史略の講義を聴いて居たが、新入牛たる翁の傍若無人なる態度に憤慨し、恥を掻かせる心組で、誰言ふとなく左伝の輪講をやらうと言ひ出し、第一に翁を指名した。翁は見事に左伝を講読した。塾生は意外なる翁の学問に驚き、其の侮り難きを知つた。
 此事は翁が亀井塾に於て、相当に深く漢学を修めたことを示すものである。翁の入門以前に興志塾の塾生たりし者は、建部小四郎㌦箱田六輔・阿部武三郎・松浦愚・宮川太一郎・進藤喜平太其他の人々で、皆翁より六七歳の年長者であつた。高場女史の不在中に、翁が女史に代つて靖献遺言の講義を試み、塾生を感服させたこともあると言ふから、翁の漢学の素養が並々ならぬものなりしことを知り得る.翁と同塾せる宮川太一郎は、当時の翁に就て下の如く語る――
 「頭山が人参畑に居た頃は、その一挙一動凡て吾人と其趨舎を異にして居たが、殊に其読書法と来ては、又極めて奇なるもので、毫も章句に拘泥せず、而も其会心の所に至るや反復訥読、夜に継ぐに農を以てするといふ工合で、之を暗論するに至らねば息まず、其精力の絶倫なりしことは優に暦輩に抽んでて居た。』是くの如き勉強の方法は、既に瀧田塾に居た時からのことである.此塾で翁は『暁』といふ一字だけを熱心に習ひ、其他の字を.切占かなかつた。そのために暁の字が非常に上達し、それに伴つて一体に筆蹟が上つた。独り学問の上のみならず、同様の傾向は翁の一切の行動に現れて居る。
 明治六年、翁は十九歳にして母方の頭山家の養子となつた、頭山家は十八石五人扶持の小禄であつたし、維新以後其の生活は頗る困難であつた。翁は困窮せる家計を助けるために働いた。畑も耕したし、山に入つて薪も採つた。時には山の如く薪を背負ひ、町の四辻に立つて『焚物ー、よう燃える焚物』と大声で呼ばはりながら薪売りをしたこともある。また其頃翁は.切の人間の欲を遠離して仙人にならうと思ひ、深山に立籠つて修行したこともある。それでも遂に仙人にはなり切れなかつたので、翁自ら『俺は仙人の落第生ぢや』と言つた。


---- ---- 本文のみ 次→ 最終≫

傍点 ルビ                   縦書き表示