大川周明『回教概論』

はしがき


---- ---- 本文のみ 次→ 最終≫

傍点 ルビ                   縦書き表示
  1. 全頁まとめてダウンロード
    ※ファイル名はtxtviewと表示されますが適当なファイル名をつけて保存してください(拡張子も忘れずに)。utf-8コードのテキストファイルとしてダウンロードされます。
  2. 修正画面へ
    現在、真理子未承認のユーザ最新修正を信頼するモードです。真理子が承認したテキストのみを表示するモードにする
    このテキストには真理子未承認のユーザ修正がありません。
    このテキストは過去にユーザによる修正を1回受け、真理子の校正を1回受けました。
  3. 入力マニュアル

はしがき

 マホメットによりて同時に国民的自覚と宗教的信念とを強烈に鼓吹せられたるアラビア人は、破竹の勢を以て半島より進出し、先づシリア・パレスティナ・エジプト・北阿弗利加及びペルシアを従へ、次で西はスペインを略取し、東はインダス河畔を征服して、マホメット歿後百年には、ローマ帝国が其の最盛時に君臨せるよりも広大なる版図の主人公となつた。其後此の躍大なる帝国は四分五裂して、回教徒の政治的勢力は地に墜ちたが、精神的には却つて最も華々しき勝利を遂げた。それは最も残酷に回教徒を脚下に蹂躙せる二つの強暴なる民族、即ち第十一世紀にはサルジューク・トルコ人が、次で第十三世紀には蒙古人が、軍事的には徹底して彼等を征服し去れるに拘らず、精神的には彼等のために征服せられ、共に回教を奉ずるに至りしことである。また蒙古の大軍がバゲダートを襲ひて衰余のアッバース朝を血河に溺れさせ、且スペイン基督教諸国が.漸く回教徒を圧迫し初めた丁度其頃から、回教は殆ど何等の政治的・軍事的背景なしに徐々にスマトラに弘布し初め、次第に勝利の歩みを東隣諸島に進めて、遂に南洋一帯を共の精神的領土とした。而して其後も彼等の伝道者は、如何なる政治的援助なくして、教勢を中央阿弗利加及び支那に拡張した。
 現在に於て回教は、太西洋岸の西阿弗利加より、地中海南岸に沿ひてエジプトに至り、更に東阿弗利加の印度洋岸を南下してザンジバールに及び、西南亜細亜より黒海及び裏海を越えて中央亜細亜に入り、遠く東北に進んでシベリア及び支那に達し、一方アフガニスタンの嶮峻を越えて印度平野に出で、一旦中断してマレー半島より東印度諸島に渡り、南部フィリピン諸島に至りて尽くる広大なる地域に行はれて居る。而して其れ以外に於ても、能く異教徒の間に在りて回教の信仰と儀礼とを護持する小さき信者群が、諸国の間に散在して居る。例へばリトゥアニアのコヴノ・ヴィルノ・グロドノ地方に住みてポーランド語を話すタタール人回教徒、西印度諸島・英領グイアナ・蘭領グイアナに移植せられし印度人苦力などが其れである。
 世界に於ける回教徒の総数は、学者によりて著しく算定を異にするけれど、約三億と見て大差ないであらう。その亜細亜に住むもの二億、即ち印度に七千五百万、インドネシアに五千万、西亜細亜に四千万、支那及びシベリアに三千五百万、阿弗利加の回教徒は約五千五百万、即ち大陸の全人口の三分の一を超え、欧羅巴に於てはバルカン諸国及び南部ロシアに数百万の信者を算へる。是くの如き広範囲に亘る回教の伝播は、種々なる宗敦的・政治的・社会的事情によるものにして、其の原因は決して単純でない。基督教徒の歴史家が、疾風迅雷の勢を以て行はれしアラビア人の西亜細亜征服と、其の住民の改宗とに驚魂駭魂して、回教の弘布は専ら『剣か古蘭か』と呼号せる戦士によつて成されたるものと誤り伝へて以来、マホメットの宗教は主として剣戟のカによつて弘められたるものの如く考へられて居る。但し広く世間に流布せらるる此の思想は、明白に誤謬である。回教の政治的発展は、疑ひもなく武力によつて成就された。而も其の宗教的発展は、若干の例外はあるにしても、原則として迫害強要によれるものでない。現に蒙古人やトルコ人は、剣戟によつて回教徒を征服し乍ら、却つて其の被征服者の信仰を奉ずるに至つた。回教の迅速なる弘布の最大の原因は、その信仰の純一、教義の簡潔、伝道者の熱心、及び当時に於ける東方諸国の政治的乃至宗教的混沌であつた。
 試みにアラビア人が最初に進出せるビザンツ帝国及びペルシア帝国を見よ。此等の帝国は、打ち見たるところは壮大魁偉であつたが、実は朽ち果てて生命なき巨木に過ぎなかつた。その放肆なる専制政治は、極度に国民の怨恨を買ひ、国家に対する忠誠の心は全く地を払つて居た。ゾロアスターの崇高なる信仰は、迷信と呪術とのマギ教に堕落し、キリストの純一なる宗教は、腐敗せるギリシア精神の神学的空論に累はされ、幾多の異端者を生んで互に残酷なる迫害論争を事として居た。其上此等の両国は、互に無用の干戈を交へて急速に国力を消耗させて居た。それ故に両帝国の軍隊が、果敢新鋭なるアラビア軍のために苦もなく撃破せらるるや、最早回教徒の征服を阻む如何なる力もなかつた。多年の虐政に苦しめる民なれば、愛国心からの反抗がある筈はない。蹂躙せられたる民は唯々として新しき主人の前に俯伏した。異端の徒は寧ろ残酷に彼等を迫害し来れる権力の顛覆を欣んだ。やがて此等新附の民は、彼等の腐敗堕落せる宗旨に比べて、遥に新鮮純一なる回教の信仰に帰依するに至つた。而してアラビア人自身は、往々にして取沙汰せらるる如き慓悍凶暴の民ではなく、寧ろ反対に甚だ恵まれたる素質を具へ、其の接触せる文化を学び且之を摂取する上に何の偏見をも抱いて居なかつた。かくて征服者と被征服者とが、やがて同一信仰を奉じ、また雑婚によつて血液を混じ、此の融合から三個の新しき文化が生れた。この文化はサラセン文化と呼ばれ、溌剌たるアラビア精紳によつて、ギリシア、ローマ及びペルシアの古代文明に生命を与へ、之を回教的信仰によつて綜合せる世界文化であつた。
 回教は往々にして東洋的宗教と呼ばれ、共の文化は東洋的文化と呼ばれて居る。さり乍ら回教は、ゾロアスター教・猶太教・基督教を包擁する宗教群の一宗派であり、此の宗教群に共通なる根本信仰の上に立つて居る。そは決して印度又は支那の宗教群と同類のものに非ず、従つて若し印度及び支那を東洋的と呼ぶとすれば、明かに之と対立する西洋的性格を有つて居る。而して最初にアラビア人が進出せる地域は、謂はゆるヘレネ文化圏であつた。ヘレネ文化圏とは言ふまでもなくギリシア・ローマ文明の世界であり、回教徒の初期の征服は殆ど此の文化圏に限られて居た。従つて回教文化を長養せる最大の影響は、ヘレネ文化及びペルシア文化であつた。回教の純知的方面は、徹底してギリシア文化に影響きれ、其の神学は最も多くをアリストテレスの哲学に負ふて居る。かくて回教文化は本質的に西洋的であり、印度や支那の文化に比べて、遥に密接なる関係を欧羅巴文化と有つて居る。回教がヘレネ文化圏内に極めて迅速に弘布したのは、是くの如き事情ありしに由る。
 回教の此の発達は、略ぼ西紀一〇〇〇年までの間に成就せられ、当初の単純なる信仰が、此時までには一個の複雑なる社会体制となり、牢乎たる組織を与へられて居た。回教は其後に於て、ヘレネ文化圏を超えて四方に進出し、わけても東方に於ては長き伝統を有する高度の文化圏内に進出したが、其時には既に存分に発達せる強固なる体制として、飽くまで独自の面目を堅持するを得た。それ故に回教は、印度・支那乃至インドネシアに於て、わけても低き階級の信者の間に、其等の国々の在来の伝統や文化の影響を見たけれど、回教本来の性格は、新しき環境によつて決して本質的なる変化を見なかつた。これ回教が極めて広き範囲に亘り、種々雑多なる民族の間に行はれて居るに拘らず、能く共の文化的一如性を保持し居る所以である。
 西紀六五〇年より一〇〇〇年に至る数世紀の間、回教圏は当時の世界――少くとも欧羅巴を含む西洋に於て、最も文化高き国土であつた。その都市は豪華、その寺院は荘麗、その学校は隆盛を極めし東方回教国は、暗黒時代に沈淪せる西方欧羅巴と、著しき対照をなして居た。それ故に回教は、其の燦燗たる文化を以て新附の諸民族の上に臨み、彼等自身の旧き文化伝統に対する執着又は記憶を弱め、代ふるに回教の歴史と伝統とを以てした、かくて回教徒の治下に入れる諸民族は、いつしか彼等の回教帰依以前の過去を忘却し去り、心の祖国としてアラビアに回向し、魂の祖先として初代カリーファを思慕するに至つた。例へばエジプト人は其のファラオやプトレミ朝を忘れ、トルコ人は其の可汗を忘れ去つた。此事もまた回教圏の文化的統一を護持し得た一因となつて居る。
 而も回教の弘布は益々遠隔の地に及び、之と共に其の本質に於て異類なる風俗や習慣が、いつとはなしに回教の内部に入り来りて、其の求め来れる理想的統一を維持し難きに至るべき危険が多分にあつた。而して此の危険を防止せる最大の要因は、回教圏内の諸国間に行はれる不断の交通、わけても回教の根城たるエジプト及びアラビアと遠隔諸国との交通であり、之を助長する最大の媒介は取りも直さずメッカ参詣である。北は満洲・シベリアから、東は甘粛・陜西から、西はモロッコ・スーダンから、南はジャワ・ザンジバールから、千里の路を遠しとせずして集まり来る回教徒は、其のメッカ参詣の間に、共通の感激のうちに信仰を強め、一如の精神を抱へて其の故郷に帰つて往く。
 参詣と相並んで諸国の宗教講社が、また回教圏内に於ける精紳的統一に大なる貢献をなして居る。また古より東西に往来して貿易に従ひ来れるアラビア商人は、近世に於ける交通の発達と共に一層頻繁に各地に往復し、昔乍らの回教の伝統と文化とを、新に帰依せる遠国の信者の間に弘布して、是亦回教の一如性を維持させることに役立つて居る。其上諸方よりメッカ又はカイロの回教学院に遊学し、多年の修行を了へて帰国する多くの学者が、回教の信仰を帰一させるために努力しつつあることは言ふまでもない。
 かくて共通の信仰、共通の律法、共通の文化が、やがて社会的統一の感情を生み、総ての回教徒をして互に同胞たるの感を抱かしめ、精紳的並に物質的に自余の世界と対立する『回教国 Dâr al Islâm』の観念を長養して来た。さればザンジバールの回教徒は、言語の不便があるだけで、マレーに於ても又はジャワに於ても、宛も故郷に在ると同様の気易さを感じ、好むがままに往来し、結婚し、定着することが出来る。全き『回教国』が彼等の国土である。なるほど彼等は、其の生国に対して愛着を感ずるであらう。而も一般に愛国心と呼ばるる祖国に対する忠誠の情は、彼等の場合に於ては共の生国に対してよりも、寧ろ全体としての回教圏及び其の宗教的文化に対して献げられる。

 さて回教の世界征服は、種々なる障碍によつて阻止されたが、其の最も有力なりしは西に於て基督教、東に於て印度教であつた。回教徒と基督教徒とは、既にマホメット在世の時に干戈を交へたが、其の抗争は爾来連綿として今日に及んで居る。固より個人としての回教徒と基督教徒との間に、または特殊なる回教団体と基督教団体との間には、友好親善の関係が結ばれもした。また回教徒は、彼等に臣従せる基督教徒に対しては、概ね寛大なる態度を以て之に臨み、其の才能を利用するに躊躊しなかつた。例へばウマイヤ朝では、ダマスコのヨハネを挙用して、長く宰相の重職に居らしめた。ヨハネは希臘教会の最後の偉大なる学者である。而して彼の父セルギウスもまたウマイヤ朝に仕へて内頭頭の要職を勤めて居た。而も全体としての欧羅巴基督教国は一貫して回教の不倶戴天の敵であつた。蓋し西亜細亜及び北阿弗利加の諸国は、長くローマ帝国の支配の下に其の圧制と誅求とに呻吟して居た。而して彼等のために欧羅巴勢力よりの解放の路を拓けるものは、実にアラビア人の勃興であり、斯かる歴史的因縁からも、回教徒と欧羅巴基督教諸国とは常に対立抗争を繰返して来た。
 印度教は基督教ほど有力ではなかつたけれど、尚ほ東方に於ける大なる障碍であつた。而して東印度諸島に於けるが如く、印度教の勢力が強大ならざる地域に於ては、回教は殆ど之を克服し去るを得た。但し印度の大部分に於ては、印度教は頑強に回教の進出に抵抗した。そは恰も欧羅巴基督教諸国の如く、回教徒の前に隠忍雌伏して時節の到来を待ち、第十八世紀に入りて反撃を開始するに至つたのである。もと印度洋岸の回教は、基督教との交渉も対立もなかりしに拘らず、其の地域が西亜細亜に於ける回教圏中枢と密切なる聯絡ありしため、其の影響の下に基督教に対して漠然たる反感を抱いて居た。然るに第十六世紀以来、基督教諸国が印度洋に進出し来り、永年に亘りて保持せる回教徒の地歩を脅威するに及んで、強烈なる敵意を基督教に対して抱くに至つた。
 而も中世紀に於ては、両者の対立は決して後代に於けるが如く深刻ではなかつた。蓋し中世に於ける回教及び基督教の社会は、略ぼ同一の基礎の上に建てられ、両者の主潮をなせる思想は略ぼ一致し、両者の世界観も略ぼ同一であつた。それ故に彼等は仮令敵ではあつたとしても、互に他を理解して居た。加ふるに当時の回教圏は、学問又は文化の点に於て遥に西欧の上に在りしが故に、基督教国の好学者は進んで回教の学者又は大学に学んだ。其上に両者の間を緩和せる極めて有力なる要素は、彼等の間に行はれし通商関係であつた。両者に属する商人は啻に対等者としてのみに非ず、実に協同者として取引を行つて居た。両者の死活の争闘たりし十字軍の間に於てさへ、両者の商人は相互の取引の安全を図るために全力を尽して居た。而して旧世界の大貿易路を横断せる回教の地理的位置は、大なる経済的利益を彼等に与へた。欧亜両大陸を結ぶ海陸両路が、実に彼等の支配の下に在つたのである。而して印度洋に於ては、回教は沿海一帯に弘布し、其の商人と船乗との活躍によつて、海上の貿易を独占して居た。そは単に彼等の富を増したるのみならず、種々なる民族及び文化との正常なる接触によつて、回教文化全般の向上に貢献した。
 然るに此の幸福なる状態は、其後に起れる内外の原因によつて覆されて往つた。第一には回教諸国内部に於ける政治的堕落、及び之に伴へる苛斂誅求のために、回教圏内の繁栄は次第に衰へて往つた。その過重なる輸出入税は、殆ど通商貿易を不可能ならしめんとした。第二にはコルムブスの亜米利加発見、並にヴァスコ・ダ・ガマの印度航路発見が、深刻なる打撃を回教徒に加へることとなつた。第十五世紀末葉に彼等が偉大なる航海を敢行するまでは、東欧・西亜・北阿は悉く回教徒の支配の下に在り、基督教諸国は僅に中欧及び西欧に立籠りて、回教勢力の進出を必死に防禦するだけであつた。彼等は勇猛無比なるトルコ人を先頭とする回教圏に対して、正面攻撃を以てしては決して勝算なかつたのであるが、今や思ふが儘に側面攻撃を加へ得ることとなつた。而して回教圏は、欧亜貿易に於て従来占め来りし地理的条件を撥無されたのみならず、隣接諸国との交通接触を阻止せられ、経済的並に文化的に孤立するに至つた。
 かくて回教圏に到する欧羅巴の攻勢は、年と共に激しきを加へた。そは単に欧亜貿易を回教徒の手より奪取するだけでは満足せず、苟くも乗ずべき隙さへあれば、回教圏内の諸地域に共の政治的支配を確立して往つた。第十八世紀末葉までは是くの如き経済的並に政治的進出は、主として南方回教圏に於て行はれ、其の速度も比較的緩慢であつた。然るに第十九世紀に入りてより、ナポレオンのエジプト遠征を手始めとせる欧羅巴の侵略の歩度は、俄然として急速になつた。今や北方回教圏もまた基督教諸国のために歩一歩蚕食されて往つた。
 是くの如き事態に対して、回教徒は決して無関心であつたのではない。あらゆる階級の回教徒が、其心の奥に於て深く悲しみ且憤つた。唯だ回教の信者たちは、千年の長きに亘つて、それが正当なる継承者たると纂奪者たるとを問はず、現実の主権者に封して絶対に服従すべきことを教へ込まれて来た。そのために回教徒は、概して政治的不感性となり、驚くべき忍耐を以て圧制と虐政とに屈従するやうになつた。加ふるに彼等の宿命論的信仰と、甚だしき経済的貧窮とが、相結んで一層彼等を政治的変化に無関心ならしめた。かくて世界は、回教の生命は既に滅び果てたかに考へた。回教圏の何処を見渡しても、在るものは停頓と崩壊とで、剛健堅実なる力を見るべくもなかつた。全回教圏はやがて基督教諸国の俎上に載せられ、早晩悉く分割し去られる運命を免れ難く思はれた。
 而も物窮まれば即ち通ずる。回教の淪落其極に達したと思はれた時に、内面的には宗教改革の熱烈なる運動が起り、之と相並んで外面的には汎回教主義及び国民主義の政治的運動が擡頭し、枯木再び花を開かんとするの勢を示すに至つた。此の小著は、予が二、三の団体及び私立大学に於て試みたる講義の草稿を補訂せるものにして、其の目指すところは回教の種々相のうち、其の最も根本的なる若干に就いて基礎的知識を与へるに在つた。回教は吾等が普通に考へる如き『宗教』に非ず、実に信者の全生活に関する文化体系の綜合なるが故に、研究の対象は多様であり、範囲は広汎である.此書は唯だ其の一部を取扱へるに過ぎぬことは言ふ迄もない。而も今や大東亜共栄圏内に多教の回教徒を包擁するに至り、回教に関する知識は国民に取りて必須のものとなつた。予の小著が多少なりとも其為に役立つならば欣幸無上である。
 昭和十七年九月
   大川周明


---- ---- 本文のみ 次→ 最終≫

傍点 ルビ                   縦書き表示