大川周明『印度思想概説』

第一


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第一 印度の地と人
 吉田松陰がいみじくも道破せる如く、地を離れて人なく、人を離れて事なきが故に、一国の文化が其国の地理的自然に影響せらるることは言ふまでもない。わけても其の自然が絶群特異なる場合は、その彬響も自ら鮮明にして且つ深刻である。此の一事は、総ての印度研究者が等しく切実に感ずる所である。
 試みに地図を開いて印度を見よ。略ぼ菱形を成せる此の一大陸は、西方インダス河口と東方ガンジス河口とを結ぶ一線によつて、南北両個の三角形に分たれる。南は即ちデッカン半島にして、三方山を以て囲まれ、海抜一千尺乃至三千尺の高地をなし、山岳起伏して森朴繁茂し、古代アーリア人が「密林に埋もれたる国』と呼べる地方である。北は所謂ヒンドスタンの地にして、インダス河及びガンジス河の流域である。その北境西蔵に接する処は、ヒマラヤの連峰碗々として東西一千五百哩に亘り、直ちに平地より起りて平均一万八千尺の高嶺となり、その最高峰エヴニレストは、実に二万九千尺の天外に聾えて居る。ヒマラヤの東南麓には、名高きテライの叢林ありて、熱帯動物の巣窟となつて居る。登ること四千尺にして温帯植物の繁茂するあり、一万二千尺にして寒帯となり、一万六千尺にして万古の氷雪がある。まことに熱帯の絢欄豊満と、寒帯の薫条寂蓼とが、蔵められて一望二万尺の中に在る。
 ヒマラヤ連山とデッカン高原を限るヴィンドヤ山脈との間に横はれる此のヒンドスタンこそは、其名の如く『印摩人の国』である。東西一千六百哩、中間にアラピュリの丘陵ありて、インダス河及びガンジス河の分水嶺となつて居る。ガンジス流域は広表四十万方哩、土地の肥沃にして物産の豊饒なる、実に世界無比と称せられる。マヌ法典の所謂『中間 Madhyadesha』にして、婆羅門教は此の地方に於て隆盛の極に達し、哲学起り、仏教起り、幾多の帝国興り、幾多の大都築かれ、印度文明は主として此地に花咲き、有名なる寺院、主要なる聖地は、今尚ほ多く此処に存して居る。
 ガンジス沃野の西に尽くるところ、アラビュリ丘陵の南に当り、四百哩に亘る荒涼たる印度砂漠がある。ガンジス下流地方の雨量世界無比なるに対し、此処は一滴の水なき灼くが如き砂原である。而して、砂漠の海に尽くるところは即ちクッチの水沢にして、陸に非ず湖に非ず、瘡癒の気不断に籠めて、人の住むに堪へざる湿潤沮加の地である。
 インダス河の流域は、古へより『五河国 Panjab』と呼ばれ、其の肥沃と広表とはガンジス平野に及ぱないけれど四方曜漠の間に在りて田野美しく開け、気候また温和清明なるが故に、常に印度以西の諸民族の垂灘するところとなつて来た。印度民族の中枢をなせるアーリア人も、中央亜細亜オキサス河畔の故郷を出で、今日のアフガニスタンを経て、ヵイバル峠より先づ此地に入り、洋々として海の如き大河に会ひて之を『海 Sindhu 河」と名づけ、居を其の支流の間に占め、此等の衆流に潤ほさるる沃野に家畜を牧し、農業を営みつつ、常に『富を与える栄誉の信度河』を讃美して居た。印度最古の思想信仰を知るべき吠陀讃諦は、アーリア印度人が尚未だ此地を其の国土とせる時代に成れるもの。これ婆羅門が此地を『梵聖国 Brahmaṛishidesha』と呼べる所以である。
 印度の西隣に起りし幾多の強国は、スリマン山脈を越えて幾度びか此の沃野に侵入した。スリマン山脈を横断するに二個の峡路がある。北なるはカイバル峠、南なるはボーラン峠、ともに瞼難無比の山道なるに拘らず、印度無限の富を目指す標悸剛毅の民を阻むに足らなかつた。印度は実に古より西北蛮人の掠奪地であつた。而して温暖の気、豊沃の地は、暫時にして侵入者の獺惰淫逸を促し、昔日剛健の民、年と共に華奢柔弱の民と化し去るに及んで、再び西北蛮人の侮るところとなり、その侵入を招き掠奪を蒙らざるを得なかつた。かくて紀元前五百十二年、波斯王ダリウス.ヒスタスビスがパンジャブ地方を侵略せし以来、カイバルの瞼路を越えて印度に侵入せるもの、実に二十回の多きに及び、その度毎に掠奪と破壊と変革とが繰返されて来た。
 此の地理と而して此の歴史とは、必然印度の民、印度の一切の人事、従つて印度の文化に、深刻鮮明に反映して居る。印度思想の豊麗にして而も深遠なる、その想像の雄渾にして而も繊細なる、その論断の大胆にして而も緻密なるその信仰の繁碩にして而も綜合的なる、人をして直ちにヒマラヤの荘厳を想はしめ、ガンジス沃野の豊満を想はしめテライ叢林の欝密を想はしめ、印度の天然の甚しき複雑と、急劇なる対立と、湿潤なる熱気とを想はしむるものである。
 今日に於て印度人と言へば、直ちにアーリァ人に想到する。印度を活動の舞台とし、印度文明の中心動力となれる者は彼等に外ならぬが故に、斯く考へることも無理はない。さり乍ら太古の印度住民は、西蔵緬旬より入り来りし黄色人種にして、次でコラリア人もまた東北より入り来り、夙にガンジス流域に繁殖して居た。其後ドラヴィダ民族が強大なる団結の下にパンジャブ地方より侵入し来り、先住民族を四方に駆遂して豊饒の沃野を占領し、酋長を頂きて強固なる農牧社会を形成した。コラリァ人は、今日に於ては北方の山中及びヴィンドヤ山中に散在するのみであるが、ドラヴィダ人は今日に於ても到るところに生存しその影響をアーリア印度人の上に及ぼせること甚大なるものがある。わけても行政及び租税の制度に於て、アーリァ印度人は彼等に学ぶところ多かりしのみならず、仏教衰退後に印度に興起せる新婆羅門教は、ドラヴィダ人の思想信仰に負ふところ少くない。往々にして彼等を微力なる蛮族の如く蔑視する者あるけれど、それは明白に過誤である。最近の研究は、益々彼等のアーリア印度人に及ぼせる各種の影響が、意外に深く大なりしことを立証しつつある。
 アーリア印度人は、コラリア人及びドラヴィダ人より遅れて、彼等が既に印度に占居したる後に、初めてヒンドスタン山脈を越えて印度の西北インダス河の上流地方に入り来れるものにして、時は今を距る約四千年の昔と推測されて居る。彼等の故郷は、恐らく中央亜細亜のオキサス河畔であうた。彼等はその郷土に於て既に一定の文化を有して居た。彼等は最早雑婚の域を脱して見事なる家族を形成し、父が家族の長であつた。彼等は耕作と牧畜とを主たる生業とし、造家造船の法を知り、紡績裁縫の技術を知り、金銀を使用し鍛鉄の法をも知つて居た。彼等は『保護者 Pati』又は『鞠養者 Vispati』又は『首長 Râja』と呼ばれたる族長の下に、強固なる部族生活を営んで居た。西紀前約二千年の頃に至り、彼等は何故か其の故土を去りて移住を開始し、一は西北に向つて今日のヨーロッパ人の源をなし、一は東南に進みて今日のアーリヤ印度人の始をなした。彼等は先づインダス河の流域を占領し、次でガンジス河の流域に進み、更に其の勢力を南印度に及ぼし、遂に印度の主人となれるものである。印度思想を知らんとする者は、先づ印度の『地』と『人』とを知り置くことを要する。




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