大川周明『奉事至尊・情死論』

情死論


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情死論
 情死は誠に人生の最も神秘なる現象の一なり.恋せる男女相擁して自らその命を絶つ。歓喜と悲哀ともて織りなせるその痛ましきこころを思ふて、一掬同情の涙あるも可なり。人生の本務を忘れ痴.情の為に一命を棄つるとなしてその愚を晒ひ其の非を責むるも可なり。是れ文人詩人乃至は教育家宗教家のなさむと欲する所なるべし。立つ所異なれば観る所異なり、総ての解釈は悉く是ならざると共に悉く非なる事なし。僕も亦自家の見地に立ちて之が解釈を試みむとするなり。
 情死は僕に於て一種崇高なる事実として現はる。之を一の行為と観じて冷かに倫理的判断を下さむとすれば、崖もとよりその不善なるを云ふに躊躇せざるも、情死は単に悪事なりと判定して止まむには余りに深遠なる意義を有す。夫れ男女の熱烈に相恋するや、情人は相互に相互の憧憬する対象となりて、彼等はすでに生命ある一宗教を新たに造れるものなり。而して人生の不如意なる、運命の・冷酷なる、彼等を翻弄して其の求むる所を得ざらしめ其の得たる所を失はしめむとす。何人か生を欲せざらむや。た甘恋を失ひて生きむは彼等に於て全く不可能事に属す。是に於てか相携へて死の影を追ひ蓮華台上長久の契りを夢みつ、あまんじて人生を辞.し去る。巌憬の対象.に向ひて全心・身・を捧ぐ、宗教の極致はこれなり=恋人の宗教は情死に拾てその極致の形式を具是す、是くの如きもの未だ必ずしも讃美すべき宗教に非ず、情死其ものも亦敢て渇仰に値するに非ずと雌も、人類の神秘的一面は遺憾なく此間に発揮せらる。山上の水、西に決すれば西流し東に決すれば東流す。人心深奥の霊泉八方に避りて流るるもの、人その一を遡れば遂に神秘の源泉に到達すべし。僕すべて此等の霊川を・名づけて宗教と呼ぶ。そは不可思議の力を人に賦与す。カーライルが、人は或る物を信ずるに因りて生く、多くの物につきて論議し討議するに因りて生きず、と云へるもの多小這般の消息を伝ふるに似たり。、
 宗教は往々にして儀式と混同せらる。三周忌七回忌に法事を営み、日曜毎に説教を聴く者直ちに仏教信者たり基督教信者たりと断ずべからず晶、専念懸命神仏に帰依し全我を挙げて之に捧げ、常・に生命の水を此の泉に汲む事なくば、称号念仏礼拝祈樽は彼等に於てただ一の惰性習慣ど成り了し神仏はただ一の哲璃的知識と戊り了せるものなり.、故に基督の言に、夫れわが来るは人を其父に背かせ女を其母に背かせ嫁を其姑.に背かせむが為なり、人の敵は其家なるべし、我.よりも父母を愛しむ者は我に協はざる者なり、我より子女を愛しむ者は我に協はざる者なり、その十字架を任りて我に従はざる者も我に協はざる者なり、その生命を得る者は之を失ひ我ために生命を失ふ者は之を得べしとあり。読む人或.はその激越に失するを危ぶまむかなれども、これ有りて生きこれ無くして死す、かくの如くにして始めて宗教の名に値するなり。某灯信者何々信者何々教徒と自ら称ふるの類、十の八はただ某々宗の礼典を墨守し何々教の習慣を遵奉すと云ふに過ぎざるの観あり、此ところ弁ぜざるぺからず。教.会に出入りする人にして若し其.心利欲の為に制せられたりとせむか、彼等の神は基督の神に非ずして利欲其ものなり。此時彼はすでに利欲の信老たり。其心名誉の為に制せられたりとせむか、彼はすでに名誉の信老たり。.野心の為に制.せられたりとせむか、彼はすでに野心の信者たり。此理かの仏前に称号する人に在りても異なる事なし。凡そ一事をなきむとして神仏を呼ぶは、或る事を主として神仏を従となすものなり。溺れむとして神仏を呼ぷは之を以て浮嚢視するものなり。其の求むる所は自身の生命に外ならざるを以てなり.凹挙措行動の仔細悉く神仏の為なりてふ自覚が不断に心奥に湧いて、造次も之に於てし顛怖も之に於てする人あらむには、始めて基督教徒若しくは仏教信者と呼ぴて可なり。ただこれを能くするは其人甚だ稀なり。職.に牧師に在り僧侶に在るものと錐も、此の底の宗教を有するは僅々十に一二を以て数ふ可き鰍、余は概ね自己一流の宗教を信ずる而已。語を換へて言へば神仏以外の或物に帰依し渇仰しつ}あるなり。
 斯くの如く僕は心身を捧ぐべき何ものかを有して動揺周旋一に之が為にするものを宗教を有する人と云はむと欲す。満悦憧憬の対.象が果して何ものたるかは暫く問はじ、人が或るものに由りて不可思議の力を得来り、全我を之に没入して空間と時間とを超絶し去るの一事すでに驚嘆至極の神秘たるなり。而して此の人生の神秘は情死に於て最も普通に現はる。男女相恋はすでに此の神秘の門たり、抱擁情死は此の神秘の堂たり。相恋と謂ひ情死と謂ふ一般藍双男女間の事実に於てのみ称せらるるも、観じ来れば僕の所謂宗教は悉く皆な容を変へたる恋愛、姿を更めたる情死に外ならざるなり。但し形式的宗教は僕総て之を存外に置く。
 由来東洋に一種壮快の根性あり、会心のことあれば直ちに全身全心を之が為に捧げて一死驚毛より軽し。一知己の為なる事あり、双親の為なる事あり、君主の為なる事あり、或はただ蒔の感激に基づいて然るもありと錐も概ね義を以て其の生命となすに因由す。吾国に班客なるものあり、江戸時代の産なり。弱者の為に強者を挫き貧者の為に富者より奪ふ、一旦意気に感じて起てば利欲栄辱の編絆を脱却して必死之を果す。其の動くや体面の為にす・すべてかくの如きは義に恋し体面に恋して之と情死を辞せざるものなり。人生何者かを恋するに非ずんぱ遂に活生命なし。真正なる前者は皆な真理を恋せるものなり。真正なる道徳者は皆な善を恋せるものなり・真正なる芸術家は皆な美を恋せるものなり。彼等はその形式的宗教を奉ずると否とに論なく悉く尊敬すべき宗教信岩たるなり。而して天地の真善美に恋し宇宙の絶体を愛するに至りて其の極致に達す。ユーゴーの言に、石とならば磯石たらむ、草とならば知董草たらむ、人とならば恋人たらむとあり。僕更に附加して、恋人とならば真善美の権化を恋する人たれと言はむとするなり。


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