大川周明『中国思想概説』

儒教の政治思想 一


≪先頭 ←前 本文のみ 次→ 最終≫

傍点 ルビ                   縦書き表示
  1. 全頁まとめてダウンロード
    ※ファイル名はtxtviewと表示されますが適当なファイル名をつけて保存してください(拡張子も忘れずに)。utf-8コードのテキストファイルとしてダウンロードされます。
  2. 修正画面へ
    現在、真理子未承認のユーザ最新修正を信頼するモードです。真理子が承認したテキストのみを表示するモードにする
    このテキストには真理子未承認のユーザ修正があります。
    このテキストは過去にユーザによる修正を1回受け、真理子の校正を0回受けました。
  3. 入力マニュアル

儒教の政治思想

 儒教の志すところは、疑ひもなく『道』の闡明に在る。而して『道』とは人格的生活の原則に外ならざるが故に、儒教は人間が如何にして正善なる生活を営むべきかを窮尽せんとするものである。然るに正善なる生活とは、吾等が『我』と呼ぶものと、我にあらざる『非我』との間に、正しき関係を実現し行く生活である。而して儒教は、非我の世界を天地人の三才に分類する。故に儒教の道とは、天地人の道である。一層詳しく言へば、天地人に対する正しき関係を実現すべき原則である。支那に於て苛くも真個の学者たらんほどの者は、必ず「天地人三才に通ず』べきものと考へられて来た。この思想は英国詩人ワーヅワースが、吾々は神と自然と人生とに対して正しき観念を有たねばならぬと歌つたのと、適切に符節を合して居る。
 さて儒教は、性に率ふ是を道と謂ふと教へる。孟子が「仁義礼智は外より我を鎌するに非ず、我固より之を有するなり』と言へるも、また此の意味に外ならない。道徳の自律性は、カントによつて初めて周匝精密なる論理を与へられたとは言へ、この独逸哲学者を待つまでもなく、古への儒者は其の深刻なる体験によつて、逸早く此の真理を把握して居る。例へば孟子の四端説は、取りも直さず人性に於ける道徳的基礎の研究である。彼れの謂はゆる『端』とは道徳の『自然的基礎』といふ意味である。それ故に儒教に於ては、道徳的完成のための努力を、存養とも長養とも、また修養とも呼ぶ。そは己れに内在するもの――無限の可能性を具へて潜在するところの者を、開発養育して行くことに外ならぬが故である。従つて天地人に対する道も、また本来自己に具有する道徳の自然的基礎を長養することによつて実現せらるべきものである。
 さて天とは吾等の生命の本原である。その最も直接なるは父母であり、父母より湖りて一家一門の生命の本原に到り、更に民族全体の生命の本原に到り、つひに宇宙そのもの」生命に潮原する。この天に対する正しき関係の実現が取りも直さず宗教であり、儒教に於ては之を『敬』と呼ぶ。そは人生に本具なる畏敬信頼の感情を長養洗練せるものである。
 次に地とは精神に対する自然である。その最も吾等と直接なるは、吾等の肉体的生活、竝に之に伴ふ欲求感情、竝にその要求感情の対象となる外物である。この自然に対する正しき関係、換言すれば先ず自然に対する精神の支配を確立し、次で之を精神に帰一せしむることが、取りも直さず狭義に於ける道徳そのものであり、儒教に於ては之を『義』と呼ぶ。そは人性に本質なる羞恥の感惰を鍛錬陶冶して、寛には仰いで天に慚ぢず、俯して地に愧ぢざらんと期するものである。
 最後に人とは、自己と平等なる価値を有する人格者としての人である。人格者とは、理性的に知り、道徳的に行ふ主体である。人は其の理性によつて、宇宙の一切を知悉する無限の可能性と、かくして知り得たる事物一切の意義を吾等の意志によつて現実の生活の上に実現して行く無限の可能性を有して居る。この人格の無限性を、儒教に於ては『良知良能』と呼ぶ。故に人に対する正しき関係は、良知良能を包蔵する生命の生々発展を、相互に扶助することである。そは人性に本具なる愛憐の感情を純化することによつて実現せらるべきものにして、儒教に於ては之を『仁』と名づける。然るに人間の共同生活に於て、各人各個の生命を、それぞれ分に応じて見事に生々発展させるための努力が、取りも直さず政治である。従つて政治とは、客観化せられたる仁、若しくは組織せられたる仁に外ならない。
 かくの如くにして儒教は、宗教・道徳・政治の三者を包容する一個の教系である。そは人生を宗教・道徳・政治の三方面に分化せしむることなく、之を飽くまでも渾然たる一体として把握し、其等の三者を倶有する人生全体の規範としての『道』を闡明せんと努めて来た。従つてここに儒教の免れ難き外面的混沌がある。或は儒教を以て道徳を説くものなりとし、或は主として政治家の心得を説くものなりとし、或は之を一個の宗教なりとするが如き、皆な其の原因を茲に有する。例へばダグラス教授が、孔子を以て単に『明白にして実際的なる道徳」を教へたるに過ぎずとせる類ひである。さりながら儒教は、少くともヨーロツパ的概念に於ける宗教に非ず、また倫理学にも非ず、なほさら政治学でもない。儒教は其等の一つに非ず、実に其等の総てずある。そは当初の外面的混沌を存しながら、濃かに内面的統整を与へられたる一個の道統なる点に於て、比類なき特徴を有するものとせねばならぬ。


≪先頭 ←前 本文のみ 次→ 最終≫

傍点 ルビ                   縦書き表示