八 東洋の道と南洲翁遺訓
 日本入の自由なる精神に立ち帰つて、私が先づ気付いたことは、吾々が今日使つてゐる宗教といふ言葉は、英仏独語の Religion の訳語で、東洋では単り日本人だけでなく、中国にも印度にも、適切に之に相当する言葉がなかつたといふことである。Religion はラテン語の Religio から来たもので、その Religio の由来については両説あるが、私はシセロに従つて『綿密に事を行ふ。』といふ意味の動詞 Relegere から来たものと考へる。そしてシセロが『総て神々の儀式に関することを宗教的の事柄といふ。』と言つて居るやうに、もとく羅馬人は宗教の外面の儀式を重んじて之に Religio といふ名称を与へたことが判る。単り羅馬だけでなく、他の国々でも宗教の生命は儀式にあると思はれて居た。例へば中国では書経には類・裡・望などといふそれぞれの神を杞る儀式の名称はあるが、之を概括した名称はなく、礼記に至つて初めて Religio に相当する礼祠又は祭法といふ概括的名称が出来た。日本では之と同様の概念を表はすマツリゴト又はカミワザといふ言葉があり。印度でも Rita という言葉は儀式を正しく行ふことを意味して居た。かやうにラテン語の Religio に相当する言葉は東洋にもあるが、今日一般に使はれて居る意味での Religion にぴつたり当てはまる言葉はなかつた。それ故に西欧文明が初めて和蘭語で吾国に伝へられた時、最初の翻訳者は此語を祭杞又は宗杞と訳し、其後更に宗教と改めて現に使用するやうな意味を与へたのである。
 然らば何故に東洋には『宗教』に相当する言葉が生れなかつたか。私は下のやうに考へる。入間の実践的生活は、宗教・道徳・政治の三方面を有つて居る。西欧では此等の三者が次第に分化して、その一々が独自の発達を遂げ、各自の分野を律する規範を求めるやうになつたが、東洋では其等の三者を分化させることなく、飽迄も人生を渾然たる}体として把握し、三者を包容する精神生活全体の規範を求めて来たからであると。それ故に東洋には人生全体の規範を表す言葉、従つて西洋には適切に之に相当するものがない言葉がある。それは日本のミチ、中国の道、印度のダルマ Dharma で、三者とも共通に人生全体の実践的原理を意味して居る。
 いま中国の『道』は如何なる内容を有つて居るかと言へば、それは天地人の道である。即ち人間が天と地と人とに対して正しい関係を実現する原則が、道といふ一語に綜合されて居るのである。それ故に中国では、苛くも道に志す者は天地人の三才に通じなければならぬとされた。これは英国詩人ワーヅワースが『入間は神と自然と人生とに就て正しい観念を有たねばならぬ。』と言つたのと符節を合せるものであるが、ワ・-ヅワースの揚合は、三つのものが独立した思索の対象となつて居り、中国では道の一語に宗教・政治・道徳が含まれて居る。
 後に詳しく述べるやうに、人間の天に対する関係は宗教、地に対する関係は狭義の道徳、人間同志の関係は政治であるから、道の閑明を志す儒教は、宗教・道徳・政治を等しく包容する一個の教系である。それ故に或る学者例へばダグラス教授は、孔子は『単に明白にして実際的な道徳を教へた。』にすぎぬと言ひ、或る学者は主として政治家の心得を説いたものであると言ひ、また或る学者は儒教も一個の宗教だとする。併し儒教は少くとも西欧的概念での宗教ではなく、また倫理学でも政治学でもない。儒教は其等の一つでなく、実に其等の総てである。それは当初の外面的混沌を存しながら濃かに内面的統整を与へられて居る点に於て、西欧には見ることの昌来ぬ特徴を有つ教系である。
 かやうに天地人の関係を等しく全うすることが人格的生活の理想とされて来たので、東洋では特に天に対する関係だけを抽象することなく、之を人格的生活の宗教的一面として敬震な感情の長養に努めて来た。例へば孔子は『君子三畏あり、命を畏れ、聖人の言を畏れ、大人を畏る..』と言ひ、孟子は『心を尽す者は性を知り、性を知る老は天を知る』と言つて居る。王陽明の如きは、敬震なる基督教徒を想はせる宗教的経験を語つて居るが、特に取立てて宗教を云々して居ない。それは取立てて言はなくとも、吾々の人格的生活を全うするためには、存分に此の一面をも長養せねばならぬものとされて居たからである。
 中国の道が宗教・道徳・政治の綜合体であるのに対して、印度の教法は宗教・道徳・哲学を兼ねたる教である。仏教は戒定慧の三学を立てて居るが、戒は道徳的実践、定は宗教的修行、慧は哲学的思索である。そして印度の教法は総て此の三方面を具へて居る。唯だ印度本来の教法は、三方面のうち最も力を哲学又は宗教に注いで来たが、仏陀の初転法輪は道徳的実践に重きを置いたので、ティーレのやうに之を倫理運動とする学者もあるわけである。併し原始仏教も固より叙上の三方面を具へて居にのであるから、後にはそれが分化して道徳的一面を主とする律宗、宗教的修行を主とする禅宗や浄土宗、哲学的思索を主とする三輪宗や天台宗などが、仏教の宗派として現れた。
 かやうに東洋では宗教と道徳と学問とを一体とした道を・求めて来たのに、西欧では此等のものが早くから分化して宗教は自余の丈化部門と対立して来た。そして道徳と宗教との関係に就ては、昔から議論の種となつて来た。或人は宗教と道徳とは分野を異にすると言ひ、或人は宗教は道徳の基礎だと言ふ。そして基督教の学者は殆ど総て此の意見である。基督教の竜樹菩薩ともいふべきアウグスチヌスは『ギリシヤの諸々の徳も、若し神に対する信仰を基としなければ、所詮輝ける罪悪にすぎぬ。』と言つて居るが、この意見は基督教の学者の道徳対宗教観念の典型的なものと言つてよからう。明治の初年から日清戦争以前まで、多くの基督宣教師が日本に来たが、其等の人々が繰返して言つて居たことは,『日本には基督教の信仰がないから正しい道徳がない。』といふことであつた。私が松村介石先生から親しく聞いた話であるが、明治二十年代に宣教師として米国から渡日した温厚篤実の学者で、後に『東洋精神 The Spirit of the Orient』といふ書物を著したG・W・ノツクスのやうな人でさへ、松村先生に向つて『日本には good 又は bad の概念を表す言葉があるか。』と訊ねたそうである。
 西洋で宗教・道徳・政治の分化が早く行はれたのは、西欧の分別的・特殊化的な精神によるものと思はれるが、恐らく歴史的事情が之を助長せるものである。個人と国民とを問はずその精神的生活の発達は叙上三面の発達である。此等の三面が相伴つて発達する間は、三者の間に対立又は矛盾を生ずる筈がない。唯だ三方面のうちの一つだけが、他の二方面よりも優つて発達するか、又は発達の段階を異にし且発達の歴史を異にするものが外部から入り来る揚合には、丁度鼎の三本の脚のうち、一本だけが長くなつたやうに、精神生活全体としての釣合が失はれ、蝕に他の二方面との対立又は矛盾が生ずるやうになる。而も人生はかやうな対立や矛盾のままでは落着かないから、何等かの努力によつて之を統一調和し、かくして新しく精神的発展を遂げることになる。いま西洋の歴史を見れば、宗教対道徳、叉は宗教対政治の問題が先づ起つたのはローマである。ローマの糟神生活の内容を成す宗教・道徳・政治は、全体としての調和を保ちながら発達を続けて来た。然るにローマ人の精神生活の中に、ローマ人とは全く歴史を異にし且著しく民族性を異にした猶太人の宗教、即ち基督教の信仰が入つて来た。而も基督教の信仰は、当時のローマ人の宗教よりも遥かに高い段階に達して居た宗教であつた。そのために、宗教と国家、宗教と道徳といふことがローマの最も重犬な問題となり、その解決のために非常な苦心を重ねなければならなかつた。即ち斯様にして破られたローマの糟神生活の続一を、如何にして回復するかといふことが、羅馬の政治家や思想家の心を悩ます種となつた。そして多年に亘る対立抗争の結果、国家と教会とがそれぞれ支配の分野を異にして手を携へて行くことになつたが、後にローマ帝国の衰微に伴つて、教会の支配が政治的にも伸びたことは周知の通りである。この基督教がローマ人によつてゲルマン入に伝へられた時も、殆ど同様のことが繰返された。そして更に近代になつてからは、新興の民族諸国家が、ローマ教会の政治的乃至精神的支配を斥けるために戦つたので、宗教は西洋の精神生活に於て特別なるものとして取扱はれたのである。
 いま日本の場合を顧ると、儒教が初めて伝来した時は、国民の道徳的・政治的生活が、言語や丈字の上ではともかくも、事実に於ては儒教の教えるところと殆ど同じ程度に発達して居たので、大なる精神的動揺を起さずに済んだ。其後百年にして仏教が伝来した時は、信仰問題に政治的意味が纒綿して来たために、問題は甚だ紛糾したけれど、幸にも千古に秀でた偉入聖徳太子が、神道を政治の根本主義とし、国民の道徳生活を鰐教によつて向上させ、仏教によつて宗教的生活を醇化させるといふ確乎不抜の方針の下に、日本の当面した重大問題に、実に水際立つて鮮かな解決を与へたので、新来の仏教も日本の精神生活を根抵から動揺させることなしに済んだ。太子伝補註の中に下のやうな一節がある――
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『神道は道の根本、天地と共に起り、以て人の始道を説く。儒道は道の枝葉、生黎と共に起り、以て人の中道を説く。仏道は道の華実、人智熟して後に起り、以て人の終道を説く。強いて之を好み之を悪むは是れ私情なり。』
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 勿論是は聖徳太子の言葉を其儘に伝へたものではない。併し最も鮮明に太子の精神を伝へたものである。太子が神儒仏を対立せなかつたのは、政治・道徳・宗教を分化させず、之を一個の道統に綜合したからで、此.事は十七条憲法を読んでも瞭然である。元来宗教と謂ひ道徳と謂ふのは、吾々の人格的生活の一面を形成して居るだけで、その一灯を抽象して之を学問的に研究ずることは、可能でもあるが、現実の生活に或は宗教、或は道徳といふやうな特殊の生活があるわけでない。それ故に人格的生活の三面が相並び相伴ひて進み行く限り、特に或る一つの面が問題となることがない。唯だ三面の進化が蹟行する時、例へば進化の道程又は程度を異にせる宗教が新たに現れて人心を動かす時即ち前述のやうに猶太人の信仰がローマ人に伝へられた揚合、或は未開人に高等な宗教が伝へられるやうな揚合は、勢ひ全体としての人格的生活の調和が破れ、宗教が他の両面と対立する特殊のものとして意識されるやうになる。私が既成宗教の信者でなければ宗教家でないやうに考へたのは、歴史的事情によつて宗教が特殊のものとして発達した西欧思想の感化を不知不識のうちに受けたためであらう。虚心に考へて見れば、人は基督教徒や仏教徒にならずとも能く人性の宗教的一面を長養することが出来る。その実例を私は八代大将、頭山翁に於て見たのであるが、同様の例は日本及び中国の偉人に於て枚挙に邊ない。反対に既成宗教の信仰が、却つて人格の玲蟷無碍な長養を妨げる実例も決して少くない。

 さて私は、自分の一生を通じて最も屡々私を慰めてくれた恩人は、大西郷と吾母の二人だと言つたが、私が自分で物を考へるやうになつてから、私のために人生に関する思索の基礎たるべきものを与へてくれたのも、大西郷の『道は天地自然の道なるゆゑ講学の道は敬天愛人を目的とし、身を修するに克己を以て終始せよ。』といふ『南州翁遺訓』の中の一節である。これは大西郷が自分自身の切実なる経験によつて把握し、生涯を通じて真剣に実践して来た人格的生活の三原則を簡潔明瞭に述べたもので、私の人生観の根幹となつたものであるが、それを述べる前に私は大西郷と私の郷里との関係について語りたい。
 私の郷里は山形県荘内であるが、酒井家を領主とせる旧荘内藩は幕府親藩の上位を占め、幕末には特に幕命によつて江戸市中取締の重任を負ひ、勤王倒幕党の根城であつた薩摩屋敷焼打を行つたのも荘内藩である。戌辰戦争の際には奥羽同盟諸藩のうち、独り荘内軍だけは連戦連勝して最後まで官軍と戦つたが、朝廷の御趣旨が判つたので終に謝罪降伏といふことになつた。此時官軍代表として城受取のために乗込んだのは黒田清隆であるが、会津の前例もあることだし、非常に苛酷な条件を押付けられることと覚悟して居たのに、黒田は聯かも戦勝の威を挟まず、態度は謹厳ぞ礼儀正しく、諸事公平で条件も極めて寛大、城内に留まること僅に二日で引揚げて行つた。世間では荘内城授受の時に大西郷自身が荘内藩主と折衝したように伝へられ、大西郷全集刊行会が出版した大西郷全集にも此事を以て『西郷の伝記中、省いてならぬ一佳話』であるとして居る。石井平太といふ人の『大西郷の心の奥底」と題する菊版約六百頁の著書には、大西郷と荘内藩との関係について二十数頁に亘る記事があり、著者自身が随行して席末に列り、い、価一借を目賭耳聞したとして、大西郷と荘内藩主との会見の次第を事細かに述べて居る。吐の書物は大迫大将、上村大将、横山中将、細川潤など、世問の尊敬を博して居る薩摩出身者の題字や序文で巻頭を輪つて居るので、読者が著老の叙述を信用するのに何の不思議がないが、実は徹頭徹尾架空の物語である。深い心の牽底は知るべくもないが、東北鎮定の陣中に、大西郷は髪剃り落して大入道となり、官軍荘内を攻めた時は、黒田清隆に伴つて指図を与へては居たけれど、自らは背後に隠れて其姿を現さず、城下に二日滞在はしたけれど、藩主を初め荘内藩士は誰二人大西郷と会つたものはなく、唯だ官軍の陣中に『西郷といふ大入道が居る』といふ噂が立つただけであつた。
 荘内藩の降伏は明治元年九月のことであるが翌明治二年正月、戦後の荘内藩を双肩に荷ふことになつた菅実秀氏が、上京して黒田に面会し、更めて降伏条件の寛大なるを深謝した時、黒田は是れ皆な大西郷の指図を受けて処分したので、決して自分の意見ではないと告げたので、菅氏は黒田の功に誇らぬ虚心担懐に感服すると同時に、初めて大西郷が予て聞いて居た通りの英雄なるを知り、深く心を寄せるやうになり、荘内今後の方針は、総て此人に信頼して定めようと決心した。併し大西郷は明治新政府成りて志士皆な錦衣を懐ふ時、独り爵禄を辞して薩南に帰耕して居たので明治四年春、聖旨によつて上京した時に、初めて菅氏は大西郷に面噌することが出来た。そして一見旧知の如く、湘繁に往来して交情頓に厚くなつた。当時菅氏に随身して居た赤沢経言氏の手記に、下のやうに書かれて居る――『夫子菅氏[#菅氏は割注]の翁西郷[#西郷は割注]を敬すること兄の如く、翁の夫子を親しむ弟の如し。或時翁、命もいらず名もいらず、官位も爵緑もい底ぬ者ならでは、共に廟堂に立ち、天下の大政を議し難しと語られしを、夫子つくづく聞き給ひ、それは屹度行ひ得広るぺしと答へ給ひしかば、翁恰々としてうなつかれしとなり。』
 但し菅氏は大西郷の上京を待つて誠意を傾けたのでない。明治二年には旧藩主をして二人の使者を鹿児島に遣はして親書を島津公及び大西郷に贈らしめ、翌三年十一月には政府に願ひ出た旧荘内藩士薩州遊学志願が許されたので、兵学実習といふことで、当時十八歳の旧藩主を、近侍及び選抜の藩士七十余名率ゐて、東北の荘内から遥々鹿児島に赴かしめた。一行は親しく翁について教を受け、当時鹿児島に帰つて居た桐野利秋、篠原国幹、野津鎮雄、村田経芳等の下に厳格なる軍事教練を受けたのであるが、年少の旧藩主が全く大名気分を棄て、一行と寝食を共にして励精刻苦を物ともせぬ有様は、薩摩の人灯をして涙を催させた。但し翌年大西郷の出京によつて一行も引上げることになつた。そして旧藩士は明治五年、その令弟は翌六年、黒田清隆の奨めで独逸に留学したが、これは言ふまでもなく大西郷の意図から出たものである。
 明治四年大西郷が出京を促されたのは、彼の声望によつて廃藩置県を断行するためであつたが、彼の出盧によつて此の非常の号令が行はれ、荘内には酒田県が置かれ、旧藩主は知事に、菅氏は権大参事に任ぜられた。菅氏は時勢の急変が旧藩士族に与へる深刻な物心両面の打撃を慮り、県下不毛の地を払下げて大規模に開墾事業を起し、士族のために生活の礎を築くと共に、荘内士風の護持を図らうと考へ、之を大西郷に相談して全幅の賛成を得たので、喜び勇んで帰国の途についた。其時大西郷は『奉送菅先生帰郷』と題する左の一詩を賦して菅氏に贈つた。両者の交惜は批の七絶のうちにも善く現れて居る。
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林疎葉尽転傷悲   林は疎、葉は尽きて転た傷悲す
明発復為千里離   明発すれば復千里の離と為る
細雨有情君善聴   細雨情有り君善く聴け
替人連日滴淋潤   人に替りて連日滴ること淋溜たるを
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 郷里に帰つた菅氏は、旧藩士三千五百名を以て三十四組を編成し、地を羽黒山麓松ケ岡にトし、所志貫徹を神前に晋つて開拓に着手した。開墾其事が非常な難事業であつたのに加へて、廃藩置県以来衣食に窮した不平士族が天下に充満し、新政府の処置を怨蜷して履た当背のこととて、最後まで官軍に抗した荘内蕩の士族が、神前に盟約して結束して居ることは、不邊の目的を抱く結社のやう思はれ、政府部内でも大隈重信の如きは殊に大なる疑心を抱いて居たが、大西郷は終始この事業に援助を与へ、明治六年五月、酒田県大参事松平親懐氏に宛てた手紙の中にも、大隈に向つて『此儀に於て難事相起り候はば、私引受可致旨申置。』と言ひ切つたことを認めて居る。
 明治六年十月、征韓論の破裂で大西郷は廟堂を去つたが、帰国前の数日を本所小梅の越後屋喜左衛門の別荘に身を隠した。この越後屋は荘内藩の用達を勤めた深川の米問屋で、大西郷は菅氏の推薦で之を識り、一家の会計を挙げて之に託したほど信用するやうになつた。そして愈灯帰国の際には、黒田清隆に向つて、今後静岡の徳川家と荘内の酒井家のことは、自分に代つて保護するやうに頼んで行つた。
 大西郷の故山帰臥は、荘内に取りて非常の大事であるから、翌七年一月、酒井了恒氏以下三名が、遥々鹿児島に大西郷を訪ひ、征韓論決裂に至る顛末を聴取して帰つた。此事に関する酒井氏の筆記は極めて大切な文献である。次で此年十一月には赤沢二二矢の両氏が鹿児島に赴いて翁の教を乞ふたが、その帰るに臨んで松ケ岡開墾の諸士を激励するために『気節凌霜天地知』の七大字を書いて両氏に与へた。そして翌八年五月には、菅氏自身が同志七人と共に鹿児島に大西郷を訪ね、滞在二十余日にして帰途についた。此の旅行の顛末は同行者の一人によつて目に見るやうに書き遺されて居る。此の年の九月には更に戸田務敏氏等三人が大西郷を訪ね、更に十二月には伊藤孝継氏が十八歳の伴匿と・卜」へ謡D神奈交台萄芽羊レ一半つ(蕗見語こ主を一、萄芽羊つ鼠糞交へ巽キ丁レ一和雪郎こ績つセ。臥艶交よ也図氏を入れぬ掟であつたが、両青年は特別の計らいで入学を許され、篠原国幹の家に寄宿して勉強することになつた。此時伊藤氏は松ケ岡で製した茶を大西郷に進呈して茶銘を請ふたが大西郷は直ちに『林月」『水蓮』『郡山」『敦本』『原泉』『白露』の銘を選んで、書面に認めて之を伊藤氏に与へた。此時の両青年は、十年戦争が始まつた時、大酉郷や篠原が頻りに帰国を奨めたけれど、断乎として聞入れず、薩軍に従つて諸処に転戦し遂に見事な戦死を遂げた。
 大西郷と荘内とは箇様な関係であつたから、西南戦争の勃発に際して、政府は荘内人は必ず大西郷と呼応して起つものと信じ、仙台鎮台の出征を見合せて万一に備へた。黒田清隆でさへも、当時彼を訪問した栗田元輔氏に、『貴県も鹿児島に応じて屹度起つだらうが、是亦已むを得ない。斯様な天下の大事に当つては各々思ふ所を行ふ外はない。』と告げたとのことである。そして荘内士族、わけても少壮者は、大西郷に対する信義のためにも、起つて兵を挙げねばならぬと力説したけれど、菅氏は断乎として之を抑へた。その理由としては菅氏は、今回の挙は決して大西郷の真意でないこと、旧藩主兄弟が独逸に留学して不在なるに、軽々しく兵を挙げるのは藩主に対して申訳立たぬことを述べた。そして憤激せる主戦派を取鎮めた。
 大西郷と是の如き因縁ある荘内が、明治二十二年二月に至り、大西郷が賊名を解かれ贈位の恩典に浴したことを歓天喜地したのは当然である。この芽出度い機会に、菅氏は赤沢経言氏に託して、荘内人士が大西郷に親表して聴取筆写して置いた諸記録を資料とし、その訓話を輯録させ、菅氏自ら幾度か添削修正して一巻に纒め、之を南洲翁遺訓と名づけた。そして翌二十三年四月、上野に大西郷の銅像建立のことが決まつた時、単に大西郷の風貌を国民に仰がしめるだげでなく、その真精神を天下に明かにしたいといふので、酒井家が三矢藤太郎氏以下六人の旧家臣に命じ、南洲翁遺訓を携へて全国を巡回し、弘く之を有志者に配布させた。爾来此書は普く世に行はれるやうになつたが、その由来を知る人は少ない。
 凡そ鹿児島を除けば、大西郷を思慕すること荘内のやうに篤い地方は、恐らく他にはないであらう。酒井家の如きは、毎年九月二十四日の命日には、真こころ籠めて厳かに祭典を行ひ続けて来た。私は斯様な雰囲気の中に育つたから、幼少のころから大西郷のことを語り聴かせられ、既に中学時代に幾度か繰返して南洲翁遺訓を読んだ。之を輯録した赤沢氏は、私が寄寓して居た東北随一の漢学者角田俊次先生の隣家で、其頃尚ほ健在であつた。併し私が本当に南洲翁遺訓を味ひ得るやうになつたのは、私が三十歳を越してからのことである。